日本財団 図書館


 

028-1.gif

上・セミ鯨[「勢美鯨図」]下・ザトウ鯨[「雑頭鯨図」共に『肥前国産物図考』佐賀県立博物館蔵]

 

た宮本常一の説なのだけれども、捕鯨の刃刺は家船の人たちが家船の仕事を辞めて、刃刺(はざし)になったのではないかという説を立てている注?。
そうすると中園さんが西海の捕鯨は、紀州からやって来たと紹介しましたが、そのペースは、家船とか、それぞれの地元の漁民のいろいろな伝統的な漁法を踏まえて、移動や交流が行われていたのではないかという気がしないわけではないのです。
中園…そうですね。『西海鯨鯢記』を始め、各地に残された資料を見ると、紀州系の捕鯨漁民が江戸時代の初期に西海に移動してきたことが多く書かれています。このような紀州の漁民によって、漁法が伝えられ習熟したり、地元の漁民に捕鯨の主体が移行していったのではないかと感じます。その中で、家船の仕事をしていた人々、特に潜水ができるような漁民が、刃刺の作業で捕鯨に携わっていったのかもしれません。
谷川…刃刺は海に飛び込んで潜って行くわけですよね。
中園…ええ、生月の場合だったら、壱部浦は潜水漁の集落ですし、それから呼子の周辺でも名護屋浦は、やはり潜水漁を専らとする集落です。江戸時代の記録を見ると、名護屋は潜りの漁師が、呼子には鉾突きの漁師たちがいて、その一部は家船だったとしています。
その辺りを見ると鉾突き漁師にも注目していいのではないでしょうか。そういうことを考えると、平戸の北部にも田助幸ノ浦という集落がありまして、ここの漁民は元々は家船なのですが、平戸の近海であちこち行っては盛んに漁をする。その場合、夏は潜りもやるが、多くは鉾突きをやる。それに磯の回りに網を立て回しておいて、魚を採るカジリ網という網漁もやります。西海補鯨の初期に平戸や田助からも突組が出ている。それなども彼らと関係があるものかもしれない。
もう一つ大村領の家船との関連があるのかも知れませんが、文政年間の小川島の捕鯨の記録を見ていると、小川島の中尾組に来ている加子たちは、大村領の伊ノ浦から来ていることがわかります。この伊ノ浦は西海橋がかかっている針尾の瀬戸に面した場所で、ここも家船との関係があるのではないかと考えられるところです。大村は、一七世紀の後半に深澤儀太夫という有力な鯨組主が活躍したところです。深澤儀太夫の鯨組はもともとは西彼杵半島の崎戸とか蠣ノ浦あたりを根拠地にしていたのが、五島の有川湾が壱岐に進出して、非常に大きな収益を上げる。それで大きくなっていくのです。大村領の鯨船の加子たちは

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION